Where is a place for us?

居場所はどこにある?入場予約


展覧会「居場所はどこにある?」Interviews

中谷優希 NAKAYA Yuki

「居場所はどこにある?」展覧会設営風景
左:荒木夏実 右:中谷優希

中谷さんにとって居場所とは?

「居場所」と問われて「こうです」と答えるのは難しいです。なぜなら、居場所がなかった経験から、現在進行形で居場所を考える・つくろうとする作品を作り続けているからです。

例えば《Packing-field hospital》(2020)では、居ることができない(居場所がない)ことから、逆説的に居るための/存在するための方法について「Packing(包むことで暫定的な閉鎖空間を作り出すツール)」という概念を用いて制作しました。(人は生身では宇宙空間で生きることができません。しかし宇宙服に包まれることによって、一時的に宇宙に存在することができます。宇宙服のようなこの効果を「包むこと」から「Packing」と呼んでいます。)

《Packing-field hospital》2020

「Packing」が作り出す閉鎖空間には、いくつか特性があると考えています。例えば、外部からの知覚がダウンサイズされていること、閉鎖空間内にあるものの「かたち」が保たれること、危険から隔離されていること、などです。これらの特性は、「Packing」を考えはじめた頃から理解していたものではなく、作品制作を通してなんとなくわかってきたものでした。わたしにとっての居場所とは、そのような性質がある場所と言えるかもしれません。

本展出品作品《scapegoat》のモチーフになっているラファエル前派のウィリアム・ホルマン・ハントの絵画と作品の関係について

「どこへ行けばいいのか」という想いに私とこの絵画の接続点を見出したからです。ウィリアム・ホルマン・ハントの絵画『Scapegoat』のその主題であるスケープゴートとは、ヘブライ聖書 において、贖罪の日に人々の苦難や罪を背負わされ、荒野に放たれた山羊のことをさします。一方で、他者から不満や憎悪を転嫁された対象という意味もあります。 わたしが日常生活において「スケープゴート」を体験したとき、「この気持ちはどこへ行けばいいのか」という想いが根深く残りました。また、この絵画の中で荒野に放たれた山羊も、行き場なく彷徨っているように見えます。「どこへ行けばいいのか」という、両者に共通するこの想いを接続点とし、絵画の山羊を自分の体に移植しました。わたしの体に移植することで、フレームアウトしていた事の複雑さ(絵画では登場しないスケープゴートに仕立て上げた人や実際の暴力の場面)が露呈されます。

《Scapegoat》2018

自らの身体を使ったパフォーマンスの経験について

わたしは演技ができません。ですので、自分が意思せず体が自動的に動く構造を作り、パフォーマンスの中へ取り入れました。この作品の場合は、山羊になるための人工の足がそれに該当します。石膏包帯で作られた足はとても硬く、自由に動かすことはほぼできないうえ、ただ立っている状態を維持するだけでも難しい程にわたしの身体を拘束していました。バランスをとるために足を動かすと装着部が痛み、その反射で足が勝手に動いてしまうことも多くあります。意思する動きとは異なる動きが頻繁に発生する身体の不自由さを利用して、パフォーマンスを振り付けました。上記のような本作の振り付け過程を通して、感覚ではなく論理的に身体を扱うことに興味が向きました。ですので得られたこととしては、振り付けを言葉で記譜した「舞踏譜」に対する興味関心と、主に土方巽やルドルフ・フォン・ラバンについてリサーチできたことです。

中谷さんの作品は、弱者への暴力 のイメージを想起させます。ここ数年、人種やジェンダーによる差別の問題が可視化され、日本国内でも反対の声が上がるようになってきました。それについてどのように感じていますか?

声を上げることは勿論重要ですが、その時に大切なのは「人と事(問題・行為・事象など)を分けること」だと思っています。俗に言う「罪を憎んで人を憎まず」という考えに少し違いますが近いかもしれません。分けることで、発生した問題や責められるべき行為と、それを行った人の人格や性格は、分けて考える必要がある、ということです。人を恨まない責めないというところに被害者の救いはあり、また一方で、「その事は」悪かったね、とすることで、事が人と切り離され加害者も救われると思っています。当事者(被害者も加害者も)が事について語れるようにするためには、また個人的な経験をみんなが語れるようにするためにも、人と事を分けることが重要だと思います。そうしなければ逆に暴力につながってしまうこともあり、それは恐ろしいと思います。ですのでわたしは個人的な経験を、作品では象徴的に扱っています。

今後どのような活動をしたいですか?

いくつかの死に触れたことで、ラヴ・クラフトのクトゥルフ神話や初音ミクの発生のように、「存在しないものを存在させたい」と思い現在進行形で活動しています。存在しないものを存在させる方法を考える中で、いま注目しているのは膜です。京都・仁和寺にある『僧形八幡神影向図』の膜と神の描写などをリサーチしながら制作を進めています。また、「細胞の幽霊はいるのか」ということをテーマとし、人が弔いの際に抱くイメージ(幽霊の描写)について制作をしています。

今どのようなことに興味がありますか?

美術に関して興味があるのは、三上晴子の被膜/皮膜についての思考と、荒川修作の次元と射影の話です。が、いま特に興味があるのは美術以外のことです。それは、美術の「分人*1」を軽くすることでもあります。卒業制作では居場所がない経験をした人たちと苦悩し、居場所を作ることについて考えた作品を制作しましたが、現代美術作家とキュレーターの方に「そもそも居場所がなくて困ってる人は展示に来る余裕もない」と講評していただきました。美術の力は信じていますが、確かにもっとダイレクトに当事者へ届ける方法があるのではないかと思い、美術以外のこと(当事者研究、オープンダイアローグ、ファッション、演劇等)にも別名義で取り組んでいます。

またそのような活動や人とのやりとりを通して、自分の病気が大きく治癒へ向かったことにも興味があり研究しています。それはおそらく、分人の構成比率が変化したからだと思っています。美術以外の分人の割合が大きくなってきていることにより、わたしを占領し、重くなっていた美術の分人が軽くなったためだと思っています。

*1 分人とは、対人関係ごとの様々な自分/相手とのコミュニケーションを重ねることで自分の中につくられるパターンとしての人格のこと。(平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』より)

インタビュアー = 荒木夏実
写真 = 堀蓮太郎
作品図版 = 作家提供

中谷優希

NAKAYA Yuki

1996年北海道生まれ。東京藝術大学美術学部先端芸術表現科卒業。現在ファッションの学校に通う。美術史や宗教的イコンに表れる象徴性と、自身が体感する事象を結びつける作品を制作。パフォーマンスの要素によって、リアリティのあるイメージを浮かび上がらせる。

展覧会「居場所はどこにある?」Interviews 一覧