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展覧会「居場所はどこにある?」Interviews

松田修 MATSUDA Osamu

「居場所はどこにある?」展覧会設営風景

松田さんにとって居心地がいいと感じる瞬間や場所について考えていることはありますか?前回の緊急事態宣言中などはどのように過ごしていましたか?

「居心地がいい場所」については、あまり考えたこともないというのが正直なところです。僕は厚かましいというか、図々しいというか…まあ居る場所はどこでもいいというか…家賃が安くてある程度情報をゲットできるところ?(笑)「場所」を切り開いていく体質ではないと思っているので「こういう場所に行きたい!」という意思自体がそんなにないのかもしれません。

2020年の緊急事態宣言中は、2つのプロジェクトを進めていました。「ダークアンデパンダン」(※2020年5月に卯城竜太(Chim↑Pom)、キュンチョメ、松田修、涌井智仁らによって主催されたもので、誰もがアクセスできるウェブサイトと、主催者によってキュレーションされた観客のみが観覧できるリアルな場での展覧会で構成された。)と、もう一つは「緊急時一日一約」という8人の参加者それぞれと約束をし、宣言が終了するまで毎日約束を履行していくというものです。約束一つ一つの内容は「自宅の食器にあだ名をつける」など、なんてことなく思うようなものですが、わりと大忙しでした。

「居場所はどこにある?」展覧会設営風景

どちらかというと、場所を作るというよりはある場所に呼ばれていくというのが多いのでしょうか?

居心地が良さそうだからどこかに行ってみようというのは、これまでに一回もないかもしれません。若い頃、東京に行ってみたいと思っていましたが、地方に生まれるとぼんやりと東京に対して憧れを抱くというか…人生で一回は住んでみたかった。でも居心地がいい場所だとは思っていなかったです。知らずに死ぬよりは知って死んだ方がいいなと。あと帰ったら地元で、今でいう「マウンティング」がとれるなと。(笑)

松田さんにとって「居場所」とは単なる場所だけではない、ということでしょうか?

僕の解釈では、この展覧会の「居場所」とは「心の在りどころ」だと思っています。そう考えるとしっくりきますね。現実の「居たい場所」を考えたことがなくても、現代では「権威的なポピュリズム」や「自由のないデモクラシー」なんかの間で、自分の「心の在りどころ」がないと感じる人も多いのではないでしょうか。

去年はBlack Lives Matterというのもありましたけれども、あれは個人が否定されたり差別されることが問題というよりも、歴史を鑑みて、構造的に黒人が白人に比べて貧困なのは、はっきり言っておかしいということじゃないですか。代々続く構造的な差別を解消したいっていうことは、自分のいま居る場所を変えたいってことで、それはつまり、いま現在彼らには身も心も「在りどころ」がないことを示していると思うんです。でも「現実」の問題として、それを現地の黒人以外の人がそれを実感することは難しいと思うんですよね。知識ではわかっていても。そういった意味で、心の理解というか、「他者の居場所」を理解することは難しいですよね。

お母様との作品を作っていらっしゃいますが、誰かと「居場所」を共有することは難しいということでしょうか?

いくら対話と議論を重ねても、共有することは僕はほとんど不可能だと考えています。たとえ家族間であったとしても。けど去年はBLMだけじゃなくて、新型コロナがパンデミックして、そういった抽象的で共有や共感しづらい問題が具体的に見えてきた瞬間があったと思います。誤解を恐れない言い方をすると、パンデミック禍では悪いことばかりではなくて、いいこともあった。

例えばアメリカでもヨーロッパでもコロナで亡くなった方って、底辺の人たち、お金がなくて病院にも行けない人たちが多かった。そういう状況の人から死んでいくってことがわかった時に、ベーシックインカムが始まったりした。これはコロナによって、マジョリティが感じる相対的貧困よりも絶対的貧困の存在感が増して、「自分たちの居場所」以外の「場所」に目が向けられやすくなったからだと思うんです。

僕でいえば、詳しくは作品を見てもらいたいですが(笑)、そのきっかけはコロナの影響で母親の営むスナックがなくなったことです。で、あらためて母親に取材をして、その地域特有の環境や構造的問題が見えてきて。思えば、祖母も母親もホステスだったし、周りにもそういう人が多かった。差別や格差の問題は、いままでの僕の作品にも通底していたテーマだったとは思います。けれど、ここまで直接的に作品化しようと思ったことはなかったですし、「コロナ」はそのきっかけをくれたというか、僕にとっても世間的にも「他者」への想像を刺激するトリガーにはなったと思います。まあ、他人のどんちゃん騒ぎやマスクをしてる/してないが気になってしょうがない人もいたでしょうが…。

「居場所はどこにある?」展覧会設営風景

コロナ禍により、今まで見えづらかった問題が見えてきたということでしょうか?

その通りです。その中で構造的な問題に目を向ければ、僕はなんとなく東京に来て、うっかりアートを始めて、貧困の連鎖から構造としては脱出できたような気がしている。けど、もともと貧困を構造的な問題だって理解して、努力して脱出できる人ってほとんどいないじゃないですか。故郷って別に居心地がいいわけじゃないんだけれども、なんとなく帰る場所として存在しているし。僕は帰っていたら、ポン引きの兄ちゃんくらいしかやることなかったと思うんですよね。良くて売れっ子バーテンダーかな。(笑)貧困の連鎖にのまれていたと思う。貧困は、努力不足の「自己責任」なんていう人もいるとは思うけれど、努力しようとする以上に周りの環境や情報でそうなってしまうというか。だから、うっかりアートを始めて地元に帰る気がなくなるっていう風に、居場所は「心の在りどころ」で変化するのかなとも思います。理性や理解で変わる以上に。

でも同時に、生まれ育った場所からは逃れられない。美意識も、まずは生まれた場所や環境で調整されるし、普段の会話でも「出身どこですか?」と聞かれる。「心の在りどころ」が変化しても、まるでカルマのようにつきまとってくる。(笑)僕がそのカルマから解脱(笑)する意味でも、アートシーンの中であまり見慣れない、ガチ場末のスナックが舞台である物語が存在感を放つのは、アートとしておもしろいことだと思っています。僕自身、僕の祖母や母親のような物語に共感することは難しいですが、対話してもわからないことがあるということを、頭の片隅に置くことはできる。それが彼女たちの居場所につながるんじゃないかとも思っています。誇大妄想かもしれませんが、未来の小学生が将来の夢に「スナックのママ」なんて書いて、周りの大人も眉をひそめない。そうなったら最高でしょう?(笑)

お母様やおばあ様のことを作品で取り上げることに対して、自分の身内ということもあり抵抗感はないのでしょうか?それをご自身の中でどのように消化していったのですか?

僕に抵抗は一切ありません。(笑)例えば僕の生まれたところでは、悩むこと自体を蔑む文化的傾向がある。落ち込んだり悩んだりしていると、「お前、悲劇のヒロイン病やんけ」ってなじられるんですよね。超絶貧困地域だったので、周りに悩むことしか転がってないんだけど(笑)、ディスりあって笑い合う、死なないようにするみたいな、そういうメンタリティなんですよね。そうしなきゃいけないようなメンタリティを、作品の鑑賞者にどうやって伝えようかなということは日頃から考えています。

あと母親は、本当に僕のこと詐欺師だと思っているんですよ。僕は、母親の尺度では価値がないものを、色々な話をしながら「これがアートやねん」ってお金を稼いでいる。それが完全に詐欺だと思っているようです。だから今回の《奴隷の椅子》に関していうと、本人は詐欺に加担するのが嫌で、写真の許可を取るのが難しかった。今回も荒木さんから「写真を使いたい」とご連絡いただいたんですけれども、それを伝えると、美術館を巻き込んだ大型詐欺を働こうとしてる!って…そういう考えで…。60歳過ぎてまで捕まりたくないと言っていました。一応説得して許可をもらえましたが、納得はしてないと思います。もしかしたら日本が始まってから僕の地域で「アート」って言ったのは、僕だけだと思うんですよね。

ご自身が地域で「アート」と発した第一号かもしれないと。松田さんはなぜアートを始められたんですか?

さすがに怒られるかな。(笑)アート引っ越しセンターくらいは知ってるわ!って。(笑)
僕は、東京出て何人かの友達と一緒に暮らしながら、さっき言ったように飽きたら帰るつもりでいたんです。でも一緒に暮らす友達の一人が、夢を見つけ出して。「美容師になる」って言い出したんです。そこから友達内での「お前は何になんの?」っていうマウンティング合戦が始まって(笑)、なにか言わなきゃいけない雰囲気が日に日に強くなって。それで、追い込まれた僕は、「映画監督になるわ」って言ったんです。無理矢理。(笑)そこから「映画監督になるなら美大行ったほうがいいんちゃう?」って友達もパンフレットを持ってきてくれたりして…。当時、高円寺に住んでいたので、近くの新宿に美術予備校があって「そこ行ったら映画監督なれるんちゃうんけ」って話がトントン進んで。頼んでもいないのに友達が「明日一緒に行こうや!」って予定勝手に決めて。(笑)その予備校の受付の人に「デヴィッド・リンチみたいな映画監督になりたい。僕は美大に行けるのだろうか」というような話をしたら、何故か「君は油絵科だね。」って。(笑)だから「僕の話聞いてました?油絵って金持ちの家にあるゴテゴテした絵のことですよね?」言ったんです。でもその人が言うには、絵画を学べば写真も映像も撮れるようになるし、何でもできるようになると。「嘘つきやんけ!」と帰って調べたらデヴィッド・リンチも、黒澤明も油絵描いているのを知って、「ホンマやんけ!」とびっくりしたんですよね。

僕は流されやすいので、予備校通って3ヶ月ぐらいしたら、映画監督じゃなくて「画家になりたい!」と言ってましたけどね。半年稼いで半年予備校通う生活で、入るのにだいぶかかりましたけど…。だから、きっかけは予備校の受付のおじさんと「美容師になりたい」と言った友達ですね。感謝しています。本当に、うっかりアートの道に入った感じですね。

社会が見て見ぬふりをしているようなことを社会風刺的に作品で扱い始めたのはどのくらいの頃ですか?

大学入ってもしばらくは画家になりたかったんですが、ユニークなアーティストを目指していく過程で、世界どころか大学内でも目立たない絵を描いていることに気がついて。で、将来も考えて、お金もかかる油絵制作一本でやるってのは、2年生になるくらいには辞めてました。今思えば当時は、となりに何千点並んでも誰が描いたかわかるような、淺井裕介君とか加藤泉さんみたいな画家になりたかったんだと思います。(笑)

で、自分の持つ生死感とか、つまり生まれ育った場所にあるような美意識をアイデンディファイして、それをダイレクトに伝える方向へ傾いていきました。売春街とかスラムをアイデンティティーにして制作するアーティストなんて、ほとんど聞いたことがなかったからですね。はじめは、TVゲームで、9.11の犠牲者ぶん死んでみるとか、DV(ドメスティックバイオレンス)法の逮捕者の数だけ殴られてみるとか、大きな社会問題への不感症的な目線から作品を作りはじめました。2002年くらい、大学2、3年生くらいのころで、今でもこの頃の作品が僕にとっての「処女作」にあたると思っています。当時は、田中功起さんがデビューしたくらいの頃。ビデオによる制作がやっと学生内でもポピュラーになってきた時代で、大学内での僕の評判なんてすこぶる悪かったですが(笑)、ユニークなアーティストにこそ価値があると、制作を続けていました。無理矢理「居場所」とつなげると、僕の大学時代はアーティストとしての「居場所」を探していた時代ですね。さいごに残ったのがこんな感じです(笑)。

社会的テーマを扱う上で気をつけていることはありますか?

「リアル」と「リアリティ」の違いですかね。僕が作品制作で多く用いるビデオというメディアは、「リアルをわかった気にさせる」メディアだと思うんです。でも「リアル」は現実にしかなくて、ビデオはその「リアル」の「リアリティ」を大きくしたり小さくしたりすることができる。もっと言えば、「フィクション」から「リアリティ」を感じさせることも可能です。これはビデオに限った話ではありませんが。

《奴隷の椅子》The Slave Chair
「居場所はどこにある?」展覧会場写真

で、自分が体験したリアルをリアリティとしてどう伝えるかをを考えたときに、社会問題がそれを測るものさしとして有効だと思っています。言語化もしやすくなる。だから社会の問題を解決する目的で扱うってことは、ありません。社会問題や社会構造を利用する形でしょうか。中には繊細に取り扱うべき問題もあるとは思いますが、表現すべきことがアートとしてあると思ったならば、躊躇することはありません。差別や貧困、あるいは原爆や地震などの社会問題は、そこに住む人だけの問題ではないと考えるからです。つまり当事者性が高い低いは存在しても、人類全員が当事者だとも思うから。パフォーマンスや立体作品の制作を行うときも、基本的には同じように考えています。

最後に《奴隷の椅子》について教えていただけますでしょうか。

先ほど当事者性の話をしましたが、僕はだれもがスラムなんかを描いていいと思っています。でも実際作者の当事者性が高い問題を扱う作品は、作品の濃度を上げるというか、その当事者しか持ち得ない目線の作品になりますよね。さっきの美意識やメンタリティの話もそうですが、当事者性が高く、アート作品としていいものが提案できると思ったのが《奴隷の椅子》の制作に至った理由の一つです。

あと制作の過程の話をすると、最初は普通に母親のインタビューを撮影したんです。内容は今の作品とほとんど変わらないのですが、なんかエモすぎる気がして、感動消費みたいな感じが嫌で、嘘か本当かわからないような、メタ目線で母親の写真に喋らせる方法にしました。先ほどの「リアル」と「リアリティ」の話ですね。その代わり、何十年もスナックにあったソファーを、「リアル」として使うことにしました。このような「リアル」は、スタジオ内の制作では不可能ですからね。また、母親のインタビュー内には祖母の話が出てきたので、スラムの現実として、スラム住人にボコボコに殴られた実際の祖母の写真を使いました。

特殊な街であればあるこそ、人は好奇心を持つものだと理解していますが、現実のスラムにはそういった「暴力」があることも作品として描きたかったからです。つまり、そこの住人は微笑むミッキーマウスではないってことで。それはみんな知ってるか。(笑)とにかく、駅前でひったくり事件が起こるような街を舞台に、家族の話を展開することは構想としては前からあったんですが、タイミングがつかめなかったんです。どうしても、「今」作らねばならないという気持ちにならなかった。それが、去年は作らねばならない気持ちになった。そういう作品です。

お母様が松田さんを詐欺師だと思っているとは衝撃的ですが、今回の作品に対して何かお話はされましたか?

アーティストが詐欺師というのはある意味で当たってるかもしれないと思っていて。母親にも自分の尺度があるわけじゃないですか。常識とか。その中で言うとアーティストはやはり詐欺師なんだろうなと。今アートに思えないもののほうが、既存のアートを現実に拡張する可能性があるわけで、少なくとも僕にとっては、そんなアーティストが本物のアーティストというか、面白く見える。そういう意味では、面白いアーティストであればあるほど詐欺師度が増すことになる。何回話しても否定はできないですね。社会に貢献する、良い詐欺師だとは話していますよ。(笑)

インタビュアー = 鈴木萌夏
編集 = 荒木夏実
協力 = 伊東五津美、姥凪沙、竹下恭可
写真 = 堀蓮太郎

展示風景:松田修展『こんなはずじゃない』、 2020-2021、無人島プロダクション、東京 撮影=森田兼次 Courtesy of MUJIN-TO Production

松田修

MATSUDA Osamu

1979年兵庫県生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻修了。格差、貧困、孤立などの社会問題を、自身の経験や実感に基づいた表現を通して可視化する。独特のユーモアや皮肉を交えながら、社会の周縁に生きる人々に眼差しを向ける。

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