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展覧会「居場所はどこにある?」Interviews

磯村暖 ISOMURA Dan

「居場所はどこにある?」展覧会設営風景
左:磯村暖 右:エリン・マクレディ(MOM+I)

「子供の頃はあまり居場所がなかった」と過去のインタビューでお話しされていますね。

僕は複雑な家庭で育ちました。そのストレスに加え小児喘息の症状が出て、夜も眠れないことがよくあって不眠状態が続いたので学校にいけなくなってしまいました。病院に連れて行ってもらえなかったから喘息の発作を起こしているということも自覚していなくて、改善もせず、学校にも行けないし、家にいるのも辛かった。「このまま布団の中で死ぬのかな」と思う日々でした。

小学校に上がる前から父子家庭だったんですが、6年生の時に母の家に泊まる機会があって、そこで母が僕は小児喘息だと気づいたんです。その時かなり重症で、病院に連れて行ってもらってから少しずつ緩和していきました。でも学校に行くことはできなかった。だから母が、父と二人だけの生活から抜け出すために、母の実家の佐賀に行くことを勧めてくれました。1ヶ月くらい佐賀の陶芸工房に通うと毎日楽しくて心身共によくなっていった。けれど周囲が望む最終目標はやっぱり学校に行くことで、調子がいいからと家に帰ったらまた具合が悪くなりました。そこで母が、家に戻らずオーストラリアに留学したらいいのではと提案してくれたんです。

オーストラリア行きは不安も大きかったけど、以前旅行で行った時に体調が回復した経験があったことと、今の最低の生活から抜け出せるならいいかと思い行くことにしました。留学先では日本人の子供が暮らす寮に住みました。問題児が多くて決して居心地がいいとは言えなかったけれど確実に埼玉での生活より遥かにいいコミュニケーションがあって、お互いのサポートがあり、学校にも通えるようになりました。通っていた現地の中学校ではもちろん人種差別があったり、言語の壁から孤立したりしたけど半年くらいで英語も話せるようになって、友達もできました。

オーストラリアに移住するまでは「学校に行けないことも苦しいことも自分が悪い」と思ってましたが、環境が変われば自分の本来の願望に沿った生き方ができるし、もっと活動できるし、幸せになれることに気づいて。オーストラリアに行って最初の半年は変化が大きいし、それまでの後遺症的なものが出てしんどいときもあったけど、半年したらやっと自分の人生を手に入れた感覚を強く持ちました。それで、自分の居場所は選択できるんだという感覚を持ちました。

難民や移民など、居場所のない人たちに寄り添う作品を作るようになったきっかけは?

難民や移民は、困難を抱えたり悪い環境にいる人が勇気を持って、リスクを払って、環境を変える選択をしている。でも強制的に連れてこられた人もいる。新しい環境で自分の人生が始まったという感覚を持てたラッキーなケースに僕はたまたま入ることができたと思う。でも潰されそうになったこともあるし、自分一人の頑張りだけではなく、その時々で支えてくれる人や支えるシステムがあったからやってこれたという感覚がすごく強くあります。

僕は中学3年生になってから日本に戻って母と東京に一緒に暮らし始めたんですが、オーストラリアに行ったことで、それまで見えなかった移民の人や、環境を変える判断をして日本にいる人たちの存在が初めて目に留まるようになった。それまでは日本に移民なんていないんじゃないかと思ってて、子供の活動範囲で出会うこともないし、同級生の移民の子に対しても、典型的な勘違いで、どうせすぐ帰るんだろうみたいな感覚があった。でも自分が海外に行く体験をしたことによって、自分ごととして捉えるようになったし、自分の体験より悪い状況にいる人が多いと感じることもありました。僕も人種差別的なことを言われたりされたりしたことがあって、本当に理不尽な行為だと思っていたことを、身近な人がしてる。それが当たり前にあることを肌で感じて、どうしてそんなことをするんだろうという感覚が中3の時からありました。詳しくリサーチしていたわけではないけれど、中3からずっと、高校生の時もそういう問題意識がありました。

《How to Dance Forever(Dance Lesson #1 VOGUEING)》
「居場所はどこにある?」展覧会場写真

制作するモチベーションはどこからくるのでしょうか。

僕は自分が新しい環境に来れて良かったと思った過去の経験から、「良い影響を与える側にいたい」と中学生の時から無力ながら意識としてはあった。でも自分にできることなんてそうそうないじゃないですか。人に伝える方法もわからないし、伝えたところで意味があるのかもわからないと迷う状況が続きました。それを行動に移すきっかけになったのは、2016年にイギリスが国民投票でEU離脱を決めたとき。

それまでは移民が増えていく状況に対して「摩擦が生まれるのは仕方ない」ことで「グローバリゼーション」が進むなかで「ダイバーシティ」を大事にすることをみんなが目指すべきだという全世界的な同意が一応はあったと思うんです。けれどもイギリスという大国が、移民排除的な思想を含んだEU離脱という判断を国民投票で下したことは、すごい方向転換に見えた。全世界的に協調や共生、ダイバーシティに向かっていたところからの方向転換の意思表示をイギリスがした。これはもしかしたら他の国も次に続くだろうなと思いました。そしたら実際にその数ヶ月後にトランプが当選して。

全世界的に排外主義的な雰囲気が蔓延して、それこそ居場所を求めて国境を越えてきた人たちの場所が狭められる、あるいは今まで安全だった場所も危険になるのを感じました。その時、自分は日本にいる日本人だったけど、すごく「やばい!」と思って。僕個人ができる範囲で少しでも居心地がよくなったらいいなと思って接してきた、日本にいる大好きな移民の友人たちにも悪影響がでるかもしれないと思ったら、いてもたってもいられなくなった。どんなに微力であろうが意思表示をしたいと思った。外国人差別とか人種差別的な思想が広まっていくのは嫌だった。それに対して、そうではない考え方や感覚を持てるようなことを制作に取り入れたいと思い、2016年夏くらいに初めて、移民や難民が受け入れられたり排除されたりすることをテーマにした作品を作るようになりました。それが活力というか動機ですね。

「居場所はどこにある?」展覧会設営風景

セクシャリティをテーマにした作品も制作されていますよね。

オーストラリアにいた中3の時に彼氏ができたんです。それを受け入れてくれる友達もいました。人生で初めて彼氏ができたわけだからうれしいじゃないですか。でも日本に帰ってきてから遠距離恋愛になってしまったんです。転校生の身分でそういう恋愛の話ができないのもありますけど、とにかくホモフォビックな空気感を感じ取って、この中学校で彼氏がいるっていったら終わるなと思い、黙っていたんです。ホモフォビックな言説や空気感を思春期の時にどんどん自分に内在化させていって、自分で自分が気持ち悪くなる感覚がありました。自分が同性を好きなことが自己嫌悪だし、気持ち悪いし、直したいという感覚・意識の中で思春期を過ごしていました。

高校生になってからは、女性と付き合って「ああ、よかった、自分は直ったんだ」みたいな感覚があった。だからこそ「自分の気持ちは押し込めなきゃいけない」と思っていたんですけれども、高3でまた男性と付き合って、でもそのことがすごく苦しくて高校のスクールカウンセラーの人に一度相談したんです。そうしたら、そのカウンセラーにも否定されてしまった。僕自身はその男性と付き合っていること自体は幸せに感じているし、否定したくないのだけれども、この社会の状況では同性と付き合うことは苦しいと伝えたら「なんで幸せでいられるの?幸せでいることはおかしい」「もっと罪の意識を持ちなさい」と言われてしまった。「その状態が幸せだと思っている人に私はカウンセリングしたくない」みたいなことを言われたんです。僕もそのカウンセラーに「あなたは経験が足りないんじゃないですか」と怒りましたが、思春期で初めて母親以外に伝えたのに、そう言われてしまったのはかなりキツい体験でした。その人の主張は「セクシャルマイノリティなら影で悲しんで生きろ」みたいな感覚だと思うんです。「影で生きてる間、悲しいことがあれば私が聞いてあげるから」みたいな。

LGBTQの当事者の人たちも「自分たちは黙って何も言わずに影で好きなことやればいい、バレなければいい」みたいな感覚を持ったり、自分自身に言い聞かせて生きている場合があることを現在でも感じています。同性婚を反対してる人に実は当事者も多い。今まで影で生きてきたんだから、そういう悲しい生き物なのだから、変な新しい主張をしたり、自分たちの存在を人々に認識しないでほしいみたいな話をする当事者の人たちと今まで多く会ってきました。存在はしていても、そのことを押し殺して生きていく、そういう空気を日本にいて感じて、僕自身大学でもカミングアウトしてなかった。大学時代も同性の恋人がいましたけど、アウティングされたり噂をたてられたりして居心地は悪かったですよ。一番大学で仲よかった男の友達が、「自分の高校時代の友達がゲイだってわかったから縁切った」という話を僕にしてきたり。だから藝大でも卒業するまで黙っていなきゃみたいな感じで生きていました。

「居場所はどこにある?」展覧会設営風景

転機になったのは、2017年の末から2018年の頭までアーカスプロジェクトのレジデンスプログラムで台北にあるクァンドゥ美術館というところに2ヶ月滞在したこと。行きたかったきっかけは、その時台湾で同性婚が可決されそうな流れになっていたからです。はっきり可決されたわけではないけれど、同性婚を合法化させようと働きかけている党が勝って法案が通りそうなくらいのタイミングでした。もし同性婚が合法化されたら、アジアで初めてだし、それに興味が湧いて、その動向をリサーチするという名目で行きました。藝大を卒業した後もカミングアウトはしなかったし、仲の良い友達は知っていたけれど、美術関係者に言うわけでもなかったのですが、台湾にはそういう名目で行ったからね。

クエスチョニング、あるいはパンセクシャルとして自分のことをアイデンティファイしているのですけれども、そういう状態であることを明かして滞在したら、めちゃくちゃ居心地が良かった。話を合わせる必要がないし、否定されないし、台湾のその時の空気感もあるし。リベラルで、アライがめちゃくちゃいる。台湾のプライド・パレードとか半分以上がSOGIマイノリティではないアライの人らしくて、初めてミーティングするキュレーターの人が虹色のスカーフを巻いていたので「あなたも当事者なんですか」と聞いたら「いいえ、アライです。」って。そんな感じの毎日だった。

自分はこんなに「押し殺さなきゃ」と思っていたし、自分と同じような考えの人がいっぱいいるのを見てきたのに、台北にいる2ヶ月間で、完全に自然に過ごせていたんです。それ以降は日本に帰ってからも、わざわざ自分で表明したりはしないものの、隠さなくなりました。必要とあれば彼氏がいることを伝えたりするように変わっていった。もしそれで日本で差別されたりとか、居心地悪くなったりしたら台湾とか別の国に行けばいいやっていう、心強さみたいなものができて、そういう風に活動するようになり、と同時にやっぱり日本でここまで居心地が悪いっていうことは、日本に愛着がある人間として悔しいと思う。だから、このテーマを扱う制作や活動をするようになりました。

インタビュアー = 鈴木萌夏
編集 = 荒木夏実
協力 = 伊東五津美、姥凪沙、竹下恭可
写真 = 堀蓮太郎

磯村暖

ISOMURA Dan

1992年東京都生まれ。東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。2017年ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校第2期卒業。移民やジェンダー、セクシュアリティ、宗教など社会における様々なテーマを絵画、彫刻、映像など多様な手法を用いて表現する。

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